榧野尚さんの履歴書。

2012/08/20

異なる世界を見てほしい。
榧野尚さんの履歴書。

名前
榧野尚さん
性別
男性
年代
79才(インタービュー当時)
属性
大学教授
参加国
中国、モンゴル

NICEとの出会いを教えてください。

僕は個人的にガーナへ行く予定があって、予防接種(黄熱病)を打ちに広島へ行ったんですね。その会場で広島大学の学生と出会ったんです。その子はケニアへ便所を作るボランティア活動へ行くんだ、そのボランティア活動は「ナイス」という団体を通じていくんだよ」と話してくれました。それからNICEのことが気になって、インターネットで調べてコンタクトを取ったんですよ。

最初に参加したのは、1998年4月から5月中国・山西省大同で植林のボランティアでした。そこへ何度か参加しました。1999年3月~4月、中国・浙江省仙都へもいきました。それからアゼルバイジャン(2003/7~8)へも行きました。この年代はよく覚えているのですが、1997年の10月から、自分自身でモンゴルへ行くようになりました。最初はパック(旅行)でしたけどね。二度目からは現地で相手を見つけて個人的に訪れるようになりました。

2000年にかいさん(NICE代表、開澤真一郎)から、「モンゴル青年連盟(MYF)とタックを組んで、ワークキャンプを開催したいんだけど、何度メールを送っても、うまい返事が返ってこない。タクサンがモンゴルへ何度も行っていると聞いたので、ぜひ現地MYFと直接コンタクトをとりに行ってくれないだろうか」と頼まれたんですよ。なぜかいさんが僕に頼んだかというと、実は僕が取引している旅行会社のテナントがMYFの所有している建物にたまたま入っていたからなんです。7月13日だったと思うんですけど、ナーダムの最中でモンゴルでは祝日の日だったのですが、直接会いに行きました。それから8月に孤児院でのワークキャンプが開催されることになりました。

NICEとモンゴルをつないでくださったんですね。バーター(モンゴルのMCE代表)さんは当初から関わっていたんですか?

バーターは僕がモンゴル青年連盟へ訪れる前からかいさんと知り合いだったんだよ。たしかバーターがマレーシアへボランティアの世界会議に派遣されて、そこで出会ったんだと思うよ。モンゴルで最初に開催したワークキャンプのやり方が、官僚的で子どもたちを見下している感じだったのが、かいさんには納得がいかなったんです。それで、かいさんはもともと目を付けていたバーターを引き抜いてMCEを作り、ワークキャンプを開催できるようにサポートしたんだよ。

98年に国際ワークキャンプへ参加して以来、モンゴルのワークキャンプ立ち上げ、そして2,012年にはパプアニューギニアの国際ワークキャンプへ参加とか動いてくださっているようですが、なぜNICEをずっとサポートしてくださっているのでしょうか?

僕はNICEはメンバーですよね。ずっと長い間何もしていないメンバーなんです。僕にとってはNICEでなくてもいいんですけど、ボランティアで一番近いのはNICEなので、ずっとメンバーでいるんです。様々なボランティアを見てきました。どこも「やってやる」なんですよ。僕はやってやるんじゃなくて、自分が現地の中で生活をする、そういうボランティアを望んでいるんです。それに一番近いのは、NICEなのでずっと縁を切らないで、会費だけは払ってきました。そして、自分が足を運んだ場所で、若い人達が一緒に生活をしながら、ボランティアに取り組む機会を提供できたらいいなと思って、かいさんに話を持ちかけたりしています。もう一つ、かの上田理事長(つい彼をエイジ君と呼んでしまいます)と一緒に島根県旧平田市(現出雲市)の唐川でのインターナショナルワークキャンプを立ち上げました。何年間か続きましたが、現在は週末ワークキャンプしかないみたいです。

タクサンが1993年から頻繁に海外へ出られるようになったのはなぜですか?そしてワークキャンプなどのボランティア活動に積極的に関わったのはなぜですか?

僕の精神的なバックボーンになったのは、4歳の時のことなんです。戦争中です。太平洋戦争はまだ始まっていません。中国の侵略は始まっていました。私の住んでいる米子の近くに皆生温泉があるんですが、陸軍の療養所がありました。病気やけがをした陸軍の方々が休んでいました。そこへ親に連れられて慰問へいったんですね。向こうの方は喜んでくれて、ある将校が僕を膝の上に載せて、写真を見せてくれたんです。それが後で調べてみたら、高砂族、蛮人とも呼ばれていましたね、台湾の山岳民族の写真でした。僕の生まれた年より少し前に、高砂族の反乱(現在は霧社の反乱と言われています)があったんですね。その反乱を日本軍が弾圧しにいったんですね。その写真に写っていたのは、悲惨なものでした。大きな切り株の上に首を載せられて日本刀を振りかざしているもの、首がゴロンと転がっているもの、生け垣に首が7つぐらい並んでいるもの、薙刀の先に首をつけて台湾人の前で行進しているもの、そんな写真を見せられて、僕は泣き出して逃げてしまったんですね。

そうしているうちに、小学校4年生の時に、太平洋戦争がはじまりました。そ当時の“兵隊さん、兵隊さん”という世界で、友達も士官学校へ行くんだ!つまり兵隊さんになる道を選んでいるわけですね。その写真のせいで“俺、戦争で人殺しをしたくない”とひっそかに思っていました。当時はそんなことを言える雰囲気ではなかったですからね。5年生になった時に、新聞に技術者になったら徴兵を免れるっていうのを見たので、これだ!と思って必死に勉強したんです。それまでは全く勉強してなかったのにですよ(笑)。工業学校にも入れない成績でしたからね。勉強しすぎて、小学校を卒業したとき工業学校を飛び越えて中学校へはいちゃったんです。中学校へ行くということは戦争へ行く近道へ進んでことになりますからね。おふくろが行けというものですから。その年の8月、終戦となりました。みんなは悔しがっていましたが、僕は裏でにこにこしていました。

もう一つ、自分と海外とのつながりのバックボーンとなったのは、5年生の時の夏休みの時のことです。近くに予科練の飛行場(現米子空港)があったんですが、そこでは中国人の捕虜を連れてきて、建設作業が進められていたんですね。僕のおふくろの里がこの空港の近くだったんですね。爺さんのうちに行ったとき、捕虜の集団がやってきたんですよ。その中の一人が、僕の近くに寄ってきて、僕の頭をなでてかわいい坊やって言ったんですよ。その時の顔がとてもいい顔をしていたんですよ。ただ当時は鬼畜米英で、ルーズベルト、チャーチルや蒋介石の顔が貼られた藁人形が街角に並べられていて、その藁人形を竹やりで刺してから通るような時代でしたよ。憎しみ、いがみ合っている時代に、中国の方がにこにこして頭を撫でてくれたことが、ものすごくうれしくってね。まさに一期一会ですよね。そこで、なぜか「山東省へ行ってみたい」と思ったんですよ。その頭を撫でてくれた方が山東省出身だって直感で思ったんですよね。結局山東省へはいかなかったんですが、そのためにワークキャンプでは中国へ行こうと思いました。

僕にはひとつの“願い”があって、なぜ人々が人を殺せるのか、人殺しができるのか、それを尋ねているのです。これも写真の影響です、だから海外の様々な地へ足を運ぶようになりました。

中国・大同で万人抗があることを知りました。1945年敗戦のとき、そこいらの中国人を炭坑の中に押し込んで入り口をセメントで塞ぎました。解放後、セメントを厚ガラスにして窒素封入、中を見えるようにしました。中の人々は同じように手を入り口に向けて、口は叫んでいるように、その声が聞こえるように思えました。

僕は涙がぼろぼろ、ハンカチがぐしゃぐしゃになりました。日本軍兵士がこんな事をしたからでなく、人間にこんなことが出来るのかということがたまらなく歯がゆかったのです。その後、中国・山西省の戦争の後を一人で見て回りました。もっとも、地区の党委員会から5人ほど付いて回ってくれました。

パキスタンのアフガン難民の所にも行きました。ハザラ族のキャンプ跡、畳2畳ぐらいのテント跡が点々と並んでいた。そこで説明を聞きました。

周囲は敵対する難民がいて食料、水、医薬品は彼らの所に届かない。冬、寒い夜には体力のない子どもが亡くなる。その亡き骸を親が埋葬する力すらない、テントの前においておく。狐がやって来て、亡き骸を食べてしまう。

たまたま、向こうのほうから、父さんと小6ぐらいの男の子がやってきた。僕は何も言わずに手を差し伸べた、男の子も黙って手を差し伸べ僕の手をしっかり握ってくれた。この男の子はそんな悲惨な情景を目にしたに違いないと思った。

最後にメッセージをお願いします。

僕ね、学生に言うんですよ。3年になるまでに、一回海外へでろよ、と。海外へ行くのは、ヨーロッパやアメリカへ行ってもいいけれど、ヨーロッパ・アメリカはわれわれの生活や文化と殆ど同じなんだよね。できれば自分たちと違う生活や文化を持っているところへ行ってごらんよと言っているんです。僕が出会ってきた人たちは、言葉や宗教や人種が違っても、みんな親切だよ。僕が友達になれる人(普通の人)は、みんな親切でした。文化や生活が違っても、みんな幸せに生活しているんだよ。彼らと一緒に生活をして、彼らから何かを学んできてほしいというのが僕の願いです。

確かに、世界にはいろいろな意味で苦しい生活をしている人がいます。しかし彼らに苦しみを押し付けているのは、“既発展した文明人”のような気がいたします。

1999年のモンゴルで、電気も電話もなく、文化から隔絶された草原の中のゲルへヤギ・ヒツジと一緒におじいさんが帰ってきた。とろとろっと焚かれているゲルのストーブの炎(ほのお)に照らされながら、ぽつんと語ったおじいさんの言葉が忘れられません。

「今日一日私は幸せでした。家族もみんな元気だったし、家畜も元気だったので、今日一日私は幸せでした」
この言葉を聞いたとき、体に震えがくるほど感動しました。我々と違った文化の中でも、幸せに生きている人達がいるんだよ。その人たちのことを知ってほしいな、学んで欲しいなと思っています。

2011年11月23日(木・祝)15:00-@東京駅

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