じいちゃん・ばあちゃんと国際交流
熊本県水俣市での取り組み


名前
金刺潤平さん
プログラム名
国際ワークキャンプ 水俣
開催年
1991年~
内容
持続可能な地域づくりのために、
エコハウスの竹ゲートづくり

NICEと初めての出会いはどんなきっかけでしたか?

90年代はじめ、日本国内でワークキャンプの認知がほとんどなかったころ、ユネスコ協会連盟からの紹介で、代表の開澤さんが水俣を訪問してきたことが最初の出会いでした。ヨーロッパでは、若者たちが集ってワークキャンプが盛んに行なわれているから、日本でそのワークキャンプを広げていきたいという話がありました。私自身、水俣と言えば、「水俣病」でしか知られていなくて、水俣に住んでいる立場で、水俣のよいところも全部を知ってほしいという想いもあり、ワークキャンプを開催することにしました。
当時、NICEが財団から助成を受けて、ワークキャンプを行っていたと記憶していますが、ただ、旅館などに泊まる費用などはなかったので、宿泊や移動など、とにかくお金がかからないやり方を考えました。宿泊場所を公民館にしてみたり、移動は全部自転車だったり、あと、一番困ったのは、お風呂でした。最終的には、公民館周辺の地域の方に、お風呂を貸してもらって、「もらい湯」をすることになりました。

地域のみなさんの反応はどうでしたか?

最初はおっかなびっくりだったけど、「もらい湯」は非常によかったです。逆に、出前型の国際交流プログラムを提供することになりました。お風呂だけをお願いしていたのですが、結局、お酒などもふるまってもらって、全然宿舎に帰ってこずに、各家庭で交流が広がっていました。24年経ったいまでも、交流が続いているというのを聞くと、非常に嬉しいです。

地域参加型の国際ワークキャンプの原型が出来たのは、水俣だったんですね。

お金がないから、地域の力を借りることでしか、ワークキャンプが運営できませんでした。それが結果として、住民参加を促すきっかけとなりました。地域ではワークキャンプの受入のために、労力がたくさんかかっているけど、お金を介在していないボランティア活動であることが、住民同士の平等の関係や、参加者と住民との対等な関係を築いていると思います。

初めての国際ワークキャンプから継続をして受入をしようと思ったのは、なぜですか?

ワークキャンプの送別会をやったときに、当時参加をしていたパリからの女性が、フランスのカンカンダンスを披露してくれました。そのときに、これだったらみんなでできると、地域のおばあちゃんたちも全員一緒になって、カンカンダンスを踊りました。全員が躍るから、公民館が壊れてしまうのではと思うぐらいごちゃまぜで、盛り上がりました。そのときに70代だったおばあちゃんが、「よかぁ冥途の土産ができたばい」と話をしてくれて、このワークキャンプをやった最高の褒め言葉だと思いました。
水俣では、当時ある意味色んな交流事業が活発に行われていたけど、地域のじいちゃんやばあちゃんはしらっとみていた印象がありました。その中で、もらい湯の交流や送別会のカンカンダンスで、住民が一緒に交流できたワークキャンプは、大きな意義を持つと思いました。

この24年間の水俣市の移り変わりなど、潤平さんはどのように感じていますか。

一番の大きな変化は、「水俣病」という言葉を人前で口に出すことができるようになったことだと思います。自分は、静岡から水俣にやってきたIターン者になりますが、当時、胎児性水俣病患者ら5人で手漉き和紙の仕事をしていました。Iターン者だから、とにかく同年代の仲間をつくろうと思って、飲み会に積極的にでていました。そこで知り合った人たちと話をしてみると、そのお兄ちゃんやお姉ちゃんが、胎児性の水俣病患者であることが分かりました。その当事者の家族に対して、「水俣病」の話題なんて、できるはずもなかったです。
ワークキャンプがスタートしたタイミングと同じく、1990年から環境創造みなまた推進事業が始まりました。水俣地域ではこれまで避けて正面から向き合って話すことがなかった水俣病について、人前で話せるようになったり、様々な取組に患者・市民・行政が協働した「もやい直し」が進みました。
自分自身は、Iターン者でした。和紙を通じて水俣病患者の方との関わりがあり、一方で町の方とも付き合いがあり、しがらみのない立場で間を取り持つことができると考えていました。患者と市民をつないでいくことが自分の役割と。

これまでの国際ボランティアはどのような役割を果たしてきましたか?

水俣をどう分析するか、いろんな視点で議論すべきだと思いますが、私は、心の問題、人間関係の問題を解決していかないといけないと何も始まらないと感じていました。市民の感情を解決していかないといけないと。その取組みのひとつが、ワークキャンプだったと思います。水俣は海と山の両方のエリアを持つ地域ですが、初期のころのワークキャンプは、海側と山側の両方の地域で、前半後半で分けて開催していました。海側の人達と山側の人達の関係を構築していくことを大切にしてきて、現在、地域のつながりができたことが、ひとつのワークキャンプの役割だったと思います。

最後に、今後のNICEやワークキャンプ、中長期ボランティアに期待することはなんですか?

初期のころは、若者育成・体験学習を提供する立場としての意識や要素は強かったです。しかし、現在は、日本全国、過疎・少子高齢化の課題を抱えている田舎ばかりです。ワークキャンプをやりたいのは、若者だけでなく、地域側のほう。若い世代と地域の接点を創っていってほしいです。
ワークキャンプや中長期ボランティアで水俣に来た若者が、何かあると地域に来てくれています。そんな絆が水俣だけでなく、全国に広がっていくことを期待しています。また、今後、日本の地域では外国人移住者の受入が益々広がるなかで、NICEは多文化共生理解を地域で進めることができる団体として、大いに期待しています

これから新規開催をする方々へ向けて、一言アドバイスをお願いします!

最初に予算ありきではなく、なるだけお金がかからない様に工夫して組み立てると長続きすると思います。継続は力です。毎年毎年、集まった人によってチームのカラーが変わります。出会いは新鮮、二週間だと少し物足りなく寂しい、一粒で二度美味しいです。