江本敦子さんの履歴書。

2012/08/16

ワークキャンプで人生が変わった!
江本敦子さんの履歴書。

名前
江本敦子さん
性別
女性
年代
33才(インタービュー当時)
属性
日本語教師
参加国
ドイツ、フィリピン、タイ、日本

満足度120%、活動のやりがい度120%の数字に込めたおもいは?

私の人生、ワークキャンプで決まったようなものですからね。かなり、運命が変わってしまったんですよ(笑)。ワークキャンプが全てのきっかけというか始まりだったんです。ワークキャンプへ行ってなかったら、今とは全く違う人生になっていたと思います。それに、「行かなきゃよかった」って思ったことは一度もないです。毎回かけがえのない経験をさせてもらって帰っています。

99年の1年間に、かなりの数のワークキャンプに参加されていますね。

そうなんですよ。不思議ですよね。この時期どうやって生活していたのか、今考えたら恐ろしいです。若さの賜物ですね。短大の2年の時からワークキャンプへ行き始めて、99年の春で卒業したんですよ。在学中に就職活動はせず、バイトをしながらお金を貯めては、ワークキャンプに行って…という生活を繰り返していました。ワークキャンプにはまってしまったのと、そのまま就職する気はなくて、やりたいことをできるだけやってみようと思って、参加していました。ほぼ1年、ワークキャンプ生活でした。履歴書に書いた以外でも、週末ワークキャンプで浜松や日の出等にも行きましたし、NICE事務局でのミーティングや発送のお手伝い等、出られるものは全部出ていました。

熱中するほどのおもしろさがワークキャンプにはあったんですね。

いろんな人と出会えるのがおもしろかったですね。毎回新しい人と会えるじゃないですか。しかも、国問わずで。それに色んな体験ができるのも楽しかったですね。

江本さんの人生についてお聞かせください。

ワークキャンプイヤー(笑)の最後に、タイへ行ったんです。それは山岳民族の人たちを支援するプロジェクトで、山奥から二時間かけて学校に通っている子ども達のために学校の寮を作るというものでした。そこで自給自足に近い生活をしているカレン族の家にホームステイさせてもらったんです。電気はあったんですが、トイレは穴でしたし、スーパーもないような場所でした。各家庭で豚やニワトリを飼っていて、うちらをもてなすためだったと思いますが、じゃ、ご飯食べようかって、飼っていた豚を「ゴンッ」てこん棒で撲殺して、それが料理として出てくるんですよ。命をそのまま頂くというか。そこが今まで参加してきたワークキャンプにはない経験で、生きていた豚がお肉になるという過程を見て、ハッと思ったんです。すごい衝撃だった。わたしは豚のおろし方もしらないし、ニワトリもさばけない、文明がないと私は何もできないんだ、文明が滅びたら私は生きていけないんだって気づいたんです。普通に生活しているだけじゃ何もできるようにならないから、これは農業をやらないといけないと思って。それで、帰国後すぐに、北海道にある牧場へ履歴書を送りました。フロムエーで見つけてね。松山千春さんや鈴木宗男さんの生まれ故郷である北海道の足寄(あしょろ)町に仕事が見つかって、酪農生活をスタートさせました。そこで諸々の農作業を経験して、あ、肉をさばくことはなかったですけどね(笑)、人として生きて行く基本は教わることができました。

そうなんですね。酪農家からプロレスラーに転職?した経緯がものすごく気になります。

えっと、まずもともと私プロレスは好きじゃなかったんです。なりたいとも思ってなかったんです。柔道とか格闘技経験もなかったんですけど、思春期の頃から私すくすく育ってガタイがよくなって、よく人から「プロレスラーみたいだね」って言われることが多くて、乙女でしたからそれなりに傷ついていたんです(笑)。それで99年、ACTIONとNICEが共催のワークキャンプ(フィリピン)で、はじめちゃん(現ACTIONの代表、横田宗さん)と出会ったんですけど、はじめちゃんの体を見て、周りにそんな人いなかったから、鍛えている人ってすごいなとまたまた衝撃を受けたんです。

その時、はじめちゃんがキャンプで(私の)ウェットスーツ姿を見て、「のっち(当時のあだ名)はデブじゃないよ。プロレスラーになったら」ってなぜかはじめちゃんにすすめられたんです。当時は全く興味がなかったので否定したんですけど、はじめちゃんから馬場さんのチョップがいかに凄いかをとくと説明されたりして...。それがプロレスに興味を持つきっかけだったかもしれません。

酪農の仕事を2年くらいして、けっこう体力がついたんです。毎日500kgの牛を動かしたり、40kgのえさ運んでたりしたので。北海道でもとてもいい出会いがあって、たくさん友達ができました。酪農の仕事もやりがいがあって大好きだったんですけど、これまでのキャンプとか北海道生活を通して私の人生で出会った人たちになにか恩返しがしたいなと思ってて、「みんなに元気を与えて、人を感動させる仕事がしたいな」って思ったんです。それで、ふと、はじめちゃんに言われたプロレスラーって言葉が頭に浮かんだんです。まあ、最初は不純な動機でしたけど、事務所へ履歴書を送ったんです。その履歴書には、牛の前でフォーク持って構えている写真を添えて(笑)。ほぼネタですよね。それから東京で団体のオーディションを受けて、合格しちゃったのでプロレスラーになろうと決めました。

それから9カ月の練習生を経て、2003年にプロレスデビューをしました。当時入団したのが23歳。プロレスの世界では遅いんですよね。本当に厳しい世界だったので、そんなに長くはできないだろうと思っていました。きっと28歳くらいには結婚して子どももいるんだろうなと。でもハッと気がついたら8年続いていて、年齢も30歳過ぎていました。本当にプロレスが大好きになって、夢中になってやっていました。でもその先のことを考えたとき、人生のゴールはここじゃないなと、私にはまだまだやりたいことがあったなと思って、その年齢のリミットもあったので引退を決意しました。

8年のプロレス人生の次に選んだのが、日本語教師!これもまたまた、なぜ??が浮かんできたんですが(笑)…。

思いつきで教師になろうと思ったのとは違うんです。元々、教師にはなろうとは考えていたんですよ。短大で教員免許は取得したんです。当時、教員免許には失効がなかったので、やろうと思えばいつでもできるだろうって考えてたんですよ。今はちょっと違いますけどね。短大卒業してそのまま教師になる道もあったんですけど、教育実習とか塾で実際に子どもに教えてみて、魅力的な教師になるにはまず、一人の人間として人生経験が足りないと感じたんです。だから教師に生かせる経験がしたくて、ボランティア活動や、酪農に携わったというのもあります。もちろんプロレスも。元プロレスラーの先生なんて、絶対おもしろいじゃないですか。ただ、いざ教師に!と方向を軌道修正しようとした時に、なんせ10年も勉学から離れていたわけですから、勉強し直さないと教えられないなと気付きまして。しかも、持っている免許は、英語。外国語!言葉なんてほとんど忘れちゃっていますからね。それで、そもそも日本語もできてないのに、外国語が教えられるわけないなと思って、日本語養成講座があったのでそれを受講しました。そしたら、日本語がすごくおもしろかった。しかも、世界中に職があるじゃないですか。私の夢の一つに海外で働くこともあったので、それも考えて日本語教師はいいなと思って、今その仕事に就いています。来年あたり、海外進出を考えています。

それでは、成長ダイアグラムについてお聞きします。オール5をつけていただきましたが、この数字に込めたおもいは?

えっと、まずもともと私プロレスは好きじゃなかったんです。なりたいとも思ってなかったんです。柔道とかそうですね、今までお話したことでだいたい全部入っていると思うんですが。

実務的な知識・スキルは、洗濯機がなくても洗濯ができるとか、豚のおろし方とか(笑)。基本的に生きぬく力、家を建てたり、穴を掘ったりとか、コツがあるじゃないですか?そのコツは身についていますね。今回10年ぶりにワークキャンプに参加したんですが、陸前高田のキャンプで薪割りをやったんです。いやー、以前の経験がいかされましたね。パッキンパッキン割りましたから(笑)。

人と社会とやっていく力は、コミュニケーションって事ですよね?色んな国の人がいるので、文化や考え方の違いもあって、キャンプでトラブルもありました。私からしたら驚く発言や行動とかもあったんですが、一緒に住んでいるわけですから、一緒にやっていくしかないんですよ。だから、人間づきあいは上手くなったと思います。人の意見を聞いて、自分の気持ちを伝えて、話し合ってお互いを理解する努力をする姿勢とか、ワークキャンプに行くようになってから、たくさんのいろんな人と仲良くなるすべを身につけました。

自分でやっていく力は、はい、間違いなくついたと思います。どこででもやっていける力、危険を察知する能力とか、一人で生き抜くサバイバル力はとてもついたと思います。自分で情報を集めて、ひとりで迷いながらも集合場所へ行き、失敗からいろんなことを学んで、旅をして帰ってくる。計画通りにいかなくても、臨機応変に立て直せる「どうにかするさ」精神が培われましたね。

進路・目標は、お話したとおり、ワークキャンプで決めましたから(笑)。5ですね。

社会への考えや価値観は、そうですね、これも変わりますよ。いろんな人との話し合いや出会いで、考えさせられることが多かったですよね。フィリピンへ行った時に、フランス人のボランティアが、「JIRHE HOME(孤児院)にいる子どもたちは良い服を着ている」と言い出したんです。私はそうは思わなかったんですけどね。ただその人達の中にあるイメージ、孤児院の子どもたちはぼろぼろの服を着て、髪の毛はぼさぼさで…とはJIRHEの子は違かったんですね。だから援助は必要ないんじゃないの?って。確かに、孤児院を一歩出たら、両親はいるけどもっと貧しそうな子どもがいたりして、この差は何だろうってみんなで話し合ったりしました。でもそういうこともキャンプに来ていなかったらそれまで考えもしなかったことで、大事なのは実際に自分の目で見て聞いて、感じて、考えること。そして私たちが日本で享受している今の生活は決して当たり前でないということを知ることですね。

その後の人生に生きた人脈。キャンプを通して知り合った人は今でも私にとってかけがえのない時間を共有した大切な仲間です。全員と今も連絡をとりあっているわけではありませんが、出会った人の連絡先は全て残っています。今でも繋がっていると思っています。フィリピンのキャンプで会ったコギャルの子(笑)は親友の一人になりました。当時キャンプに20cmもあるような厚底ブーツを平気ではいてくるような子で、コイツとは絶対合わないと思っていたんです。でも、すごく仲良くなって、違うワークキャンプにも一緒に参加したし、今では12年来の付き合いになりました。他にもタイのキャンプでお世話になった人と北海道で偶然再会したり、私がプロレスラーになったのをテレビで見て、試合を見に来てくれたり、人は繋がって生きているんだなとしみじみ思いますね。

ここで、江本さんが大切にしているのっちノートを見せて頂きました。今までワークキャンプを通じて出会った方々から、のっち(江本さん)へのメッセージが書かれたノート。99年からずっと使い続け、先日参加された東日本復興特別ワークキャンプで一緒だったメンバーからメッセージもありました。すてきです☆

江本さんの人生の中で、ワークキャンプでついたチカラが役立ったことはありますか?

忍耐力、精神力はとても強くなりましたし、色んなことを受け入れられるようになった力は大きいと思います。ちょっとやそっとでは動じない人間になりました。

プロレスの時は、当時とんでもない上下関係がありましたし、肉体的にも、精神的にもとにかく厳しい世界ですから、多分、ワークキャンプに行ってなかったら、私は3日で逃げだしていたと思います。ワークキャンプや牧場で培った経験が私を強い人間にしてくれたし、それまで出会った人たちの期待に答えるためにも何があっても私はプロレスラーになると思っていたので、デビューして続けることができたと思っています。

酪農の時も同じですね。慣れるまでが大変でした。毎朝4時起きだし、冬はマイナス20度ですし、牛は大きいし。それでも、逃げ出さずにやってこられたのは、ワークキャンプで培った責任感のおかげだと思います。そもそも私、子どもの頃は病弱で、超人見知りで、小学校高学年まで一人でバスにも乗れませんでしたからね(苦笑)。こんなにタフで頑丈な人間になれたのもワークキャンプのおかげですね。

最後に、メッセージをお願いいたします。

もう、思い立ったが吉日ですよ。思い立ったら、ワークキャンプに行ってみたらいいと思いますよ。迷っても、自分の気持ちを信じること。なんか、こう、きらーーん、って来るんですよ。きらーーーんってひらめいたら、私は行っていました。Go on as you are.ですね。

ワークキャンプは自分らしく生きる道を探せる場所かもしれません。でもこれは必ずしもワークキャンプに参加したら、プラスになると言っているわけではなくて、悪いことがあっても、いいことがあってもそれをどう捉えるか、結局決めるのは自分です。日本という国に生まれて、いつどこにいても自分達のあり方を選択できる私たちに、ワークキャンプというチャンスを逃す手はないと思いますよ!

江本敦子さん インタビュー16:00-@NICE全国事務局

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